ママが旅する台所
鈴木さちこ
ぐつ、ぐつ、ぐつ。卵をゆでる。水を入れたボールに、茹で上がった熱々の卵を入れて冷やす。粗熱がとれたら殻をむく。つるんっ。湯上がり素肌のような白身が現れる。私はその瞬間、必ずと言っていいほど思い出す温泉がある。
雑誌の取材のため、数年前の初冬、東京駅から東海道新幹線の始発に乗った。新大阪駅でJR特急くろしお号に乗り換え、紀伊田辺駅で下車。さらに山の奥深くまでバスに揺られ自宅から約6時間かけてやっとたどり着いたのは、和歌山県田辺市の龍神村。紀伊半島の深い緑に包まれて、日高川に寄り添うように温泉宿が並ぶ。龍神温泉の歴史は古く、1300年前に役行者によって発見された後、弘法大師空海が命名したと伝えられている。仕事ということを忘れて、私は期待に胸を膨らませていた。龍神温泉は、群馬県の川中温泉、島根県の湯ノ川温泉とならぶ日本三大美人湯のひとつだからだ。
お湯に浸かり、深く息を吐く。肌を触ると……。つるんっ。ツルツルなのだ。まるで、ゆで卵の殻が上手にむけたときのよう。毎日このお湯に浸かっていたら、本当に美人になれるかもしれないと真剣に思った。滞在中何度も入浴して、その都度卵肌に驚いては、うっとりとしていた。日本全国に温泉はある。人それぞれ、肌との相性や好みが異なるから面白い。私は鹿児島県の温泉が好きだ。鹿児島市内は銭湯の多くが温泉なので、ビジネスホテルに泊まり銭湯に行く楽しみがある。指宿市の砂蒸し温泉では、海辺で砂に埋まり波の音を聞きながら目を閉じて瞑想した。そういえば、霧島市の日当山温泉が自分の肌にぴ
ったりだったなあ。
「たまご、まだー?」息子の声で我に返り、ゆで卵を切る。息子は黄身しか食べず、白身は私の担当。ぷるぷるした白身は息子の肌のようだ。久しぶりに自分の手をじっと見ると、母の手に似てきたことに気が付く。子育てが落ち着いたら、親友を誘ってまた龍神温泉に行こうと、卵をほおばった。
すずき・さちこ
1975年東京生まれ。旅好きのイラストレーター・ライター。
「きのこ組」「うちのごはん隊」などのキャラクターを手がける。著書に『電車の顔』『日本全国ゆるゆる神社の旅』『住むぞ都!』『路面電車すごろく散歩』ほか。